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『百万人の歴史講座』by南木倶楽部全国 見本 『日本文明の誕生』(第56回『黒田裕樹の歴史講座』)より 


黒田裕樹の【百万人の歴史講座・見本

 

『日本文明の誕生』

 

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『日本文明の誕生』

 

56回「黒田裕樹の歴史講座」                 平成28918日・25

 

「日本文明の誕生」

 

黒田裕樹(ブログ「黒田裕樹の歴史講座」)

No.56-日本文明の誕生.pdf   ← 見本のPDFです。クリックしてください。

 

以下は見本のPDFと同文です。

 

1.縄文文化は「世界最高水準」であった

「世界四大文明」という言葉については、皆様の多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると、世界史を中心とする歴史教科書に現在も記載されています。

 

その一方で、我が国の起源は、いわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲農耕(すいとうのうこう)、すなわち水田耕作などの様々な文化も、中国大陸や朝鮮半島から伝わったと教科書には書かれています。

 

こうした記述を鵜呑(うの)みにすれば、我が国は他国(特に中国や朝鮮)に比べて「劣(おと)った国家」であるという認識を植えつけられそうですが、これらは本当のことでしょうか。

 

実は、我が日本列島は、古来より「日本文明」ともいうべき、世界各国とは異なる独自の文明を築き上げてきた特別の地域だったです。

 

今回の講座では、最新の研究から明らかになった、古代に関する「我が国のほんとうの歴史」について、神話と考古学の両面から紹介していきたいと思います。

 

いわゆる「縄文時代やその文化」については、最近の歴史教科書では、おおむね以下のような記述が見られるようになっています。

 

「気候の温暖化によって植物性食料の重要性が高まり、クリ・クルミ・ドングリなどの木の実や、ヤマイモなどの根茎類(こんけいるい)の採集が行われたほか、クリ林の管理やヤマイモなどの保護、あるいはマメ類の栽培(さいばい)も行われたらしい」。

 

「このほか、弓矢などの使用によって狩猟(しゅりょう)が行われ、漁労(ぎょろう)も盛んとなった。食料の獲得法が多様化したことによって、人々の生活は安定し、定住的な生活が始まった。縄文文化は、約13000年前から、水田耕作を伴(ともな)う約2500年前頃の期間にわたっている」。

 

しかし、私(黒田)が高校時代に日本史を勉強した昭和601985)年頃の縄文文化の記述は、現在とは大きく異なっていたことをご存知でしょうか。

 

私が高校生の頃、縄文時代の文化は以下のように記述されていました。

 

「当時の人々は、弓矢や石槍(いしやり)・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝をとったり、釣り針などの骨角器(こっかくき)で魚をとったり、木の実を採集したりするなど、自然条件に応じた様々な食料獲得の技術をもっていた」。

 

「縄文時代は、狩猟・漁労・採集の段階にとどまり、生産力が低かった。動物や植物資源の獲得は、自然条件に左右されることが多く、人々は不安定で厳しい生活を送っていたことが考えられる」。

 

つまり、私が受験生の頃は、縄文時代と言えば「自然環境に左右された、貧しくて不安定な生活」であったのが、現在の教科書では「自主的な栽培も行われた、豊かで安定した生活」と、大幅に記述が変化しているのです。

 

なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には、遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。

 

青森県青森市の南西の大地に位置する三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡として知られています。

 

遺跡はすでに江戸時代から知られていましたが、県営野球場建設に先立って、平成41992)年から行われた発掘調査によって、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわしたほか、膨大(ぼうだい)な量の土器や石器などの生活関連遺物や、土偶(どぐう)などの祭祀(さいし)に関する遺物が出土しました。

 

さらに平成61994)年には、直径約1メートルのクリの巨木を使った、縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。

 

遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石(こくようせき)などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど、様々な新発見がありました。

 

三内丸山遺跡の発掘調査の結果、縄文時代の人々は、海や森からの自然の恵みを巧(たく)みに組み合わせることによって、同じ集落で安定した生活を送っていたことが分かりました。

 

これらの発見によって、縄文時代に関する教科書の記載が書き換えられ、現在のように「豊かで安定した生活」となったのです。

 

遺跡の発掘調査など、新たな発見によって、それまでの「歴史の常識」が覆(くつがえ)されるのは、決して珍しいことではありません。むしろ、それが正当であると認められるのであれば、正しい歴史を知るためにも、大いに書き換えられるべきではないでしょうか。

 

このことは、縄文時代のはじまりの年代においても、同じことが言えるのです。そのきっかけは、ひとつの土器片の調査にありました。

 

青森県外ヶ浜町(そとがはままち)にある大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)において、平成101998)年に行われた発掘調査によって、複数の土器片が見つかりました。

 

この土器片を「較正(こうせい)炭素年代法」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが、翌平成111999)年に分かりました。つまり、我が国の縄文文化における土器の技術は、世界最古クラスのものであることが明らかになったのです。

 

世界最古クラスの土器が存在するということは、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことを意味します。こうした事実が明らかになったのは、較正炭素年代法などといった、最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。

 

そして、それらの技術の向上は、いわゆる「弥生文化」における「これまでの常識」をも、大きく覆(くつがえ)すこととなったのです。

 

2.最新の調査研究で明らかになった「弥生文化」の真実

現在の歴史教科書では、弥生文化のはじまりについて、おおむね以下のような記述がなされています。

 

「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て、日本列島に波及したと考えられる」。

 

つまり、日本列島における水田耕作は、今から約2500年前に、朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、これは本当のことなのでしょうか。

 

実は、最新の研究によって、これらの見解は「完全に否定」されています。なぜなら、日本列島における水田耕作は今から約3000年前(紀元前10世紀頃)から行われていたばかりか、焼畑(やきはた)耕作あるいは陸稲(おかぼ)によるイネの栽培は、6000年前から行われていたことが分かったからです。

 

平成111999)年、岡山県岡山市の朝寝鼻(あさねばな)貝塚の土壌(どじょう)から発見された、栽培種のイネの細胞化石が、いわゆる「プラントオパール分析法」によって、今から約6000年前のものであることが分かりました。

 

その後も30ヵ所を上回る縄文遺跡からプラントオパールが発見されたことで、縄文時代において、すでに稲作が行われていたことが明らかになったのです。もっとも、当時は水田耕作が行われておらず、焼畑や陸稲による耕作であったと考えられています。

 

また、佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばた)遺跡などの出土物を、較正(こうせい)炭素年代法などで測定した結果によって、日本列島で水田耕作が行われたのは、今から3000年前(紀元前10世紀頃)であったことが分かりました。

 

一方、朝鮮半島での稲作は、約3000年前に畑作物として栽培され、水田耕作は紀元前千年紀中頃(約2500年前)に始まったとされています。つまり、歴史教科書の記載とは全く逆であり、日本列島から朝鮮半島へと水田耕作が伝わった可能性が高いのです。

 

また、歴史教科書には、このような記述が見られます。

 

「弥生文化は、農耕社会をすでに形成していた朝鮮半島から、必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文人とともに生み出したものと考えられる」。

 

上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが、実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と、従来の縄文人が共存した」というのはどうなのでしょうか。

 

もし、北部九州にやってきた渡来人が増加し、東に向かって広がっていったのであれば、渡来系とみなされるDNAが、東日本と西日本で大きな差があるはずですが、調査の結果、DNAの分布は全国でほぼ共通していることが分かりました。

 

つまり、日本人のDNAは、弥生時代に渡来人によって大きく変化したのではなく、縄文時代から日本各地に存在していたことになります。

 

さらに、男性のみがもつ遺伝子の「Y染色体」を、周辺諸国とともに調査したところ、日本人男子の約34%がもつY染色体が、他の地域にはほとんど存在しないことが分かりました。

 

歴史を鑑(かんが)みれば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。

 

我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったまま、現代まで連綿と続いていることが明らかになったのです。

 

一方、世界各地では、古くから異民族同士の戦争や、一方的な虐殺が行われており、現代でも中華人民共和国によって、満州やチベット、ウイグルなどの「民族浄化」が進められています。それに比べれば、日本民族の存在は稀有(けう)であるといえるでしょう。

 

そして、そんな日本民族の中で、2670年以上も同じ男系の血脈を保ち続けておられる皇室のご存在が、世界中の人々からどのように思われているか、ということを、私たちはもっと知るべきかもしれません。

 

3.神話の正しさを証明した「地質学的事実」

平成282016)年5月、伊勢志摩で主要国首脳会議(G7サミット)が行われた際、我が国の安倍晋三(あべしんぞう)首相を含む首脳全員が、伊勢神宮の内宮(ないくう)を参拝しました。伊勢神宮の内宮に祀(まつ)られておられるのは、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)です。つまり、G7の首脳は、天照大神に一礼を捧(ささ)げたことになります。このことは、後に大きな意味を象徴的に持ってくると思います。

 

内宮前で各国首脳が勢ぞろいした写真が公開されましたが、これが世界的にどれだけの大きな出来事かということを、皆様はご理解されておられるでしょうか。

 

我が国は、大東亜戦争後に、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)によって発せられた神道指令(しんとうしれい)によって、神道と国家が分離されると同時に、神道が単なる一宗教の扱いを受けることとなり、国家神道や神社神道に対する国家の支援も禁止されました。これには、神社をいずれ自然消滅させるというGHQの意図があったとされています。

 

これ以降、我が国は神道と国家とのかかわりに否定的となり、靖国(やすくに)神社への玉ぐし料を公費で負担させることが、最高裁の判例によって「憲法違反」とされてしまいました。

 

しかし、世界主要国の首脳は、そんな「つくられた常識」に見向きもせず、堂々と伊勢神宮の内宮に参拝したのです。このことは、各首脳の記帳の内容からも明らかです。

 

伊勢神宮の内宮参拝に際しての、G7首脳の記帳は以下のとおりです。

 

アメリカ:オバマ大統領

幾世(いくよ)にもわたり、癒(いや)しと安寧(あんねい)をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。世界中の人々が平和に、理解しあって共生できるようお祈りいたします。

 

フランス:オランド大統領

日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高(すうこう)なる場所にて。

 

ドイツ:メルケル首相

ここ伊勢神宮に象徴される日本国民の豊かな自然との密接な結びつきに深い敬意を表します。ドイツと日本が手を取り合い、地球上の自然の生存基盤の保全に貢献していくことを願います。

 

イギリス:キャメロン首相

日本でのG7のために伊勢志摩に集(つど)うに際し、平和と静謐(せいひつ)、美しい自然のこの地を訪れ、英国首相として伊勢神宮で敬意を払うことを大変嬉しく思います。

 

イタリア:レンツィ首相

このような歴史に満ち示唆(しさ)に富む場所ですばらしい歓待をいただきましてありがとうございます。主催国である日本と我々全員が、人間の尊厳を保ちながら、経済成長及び社会正義のための諸条件をより力強く構築できることを祈念します。

 

カナダ:トルドー首相

伊勢神宮の調和に、繁栄と平和の未来を創るという我々の願いが映し出されますように。

 

EU:トゥスク欧州理事会議長

静謐(せいひつ)と思索(しさく)の場。そして日本についての深い洞察。どうもありがとう!

 

EU:ユンカー欧州委員会委員長

この地で目(ま)の当たりにした伝統と儀礼に敬意を表す。

 

記帳の内容を見れば分かるように、G7の各首脳は、伊勢神宮の内宮参拝に非常に好意的でした。あるいは、内宮に祀(まつ)られた天照大神のご存在を、心の中で実感したのかもしれません。

 

我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQによる占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」によって、戦後70年を経た今もなお、日本国と日本民族を洗脳し続けています。

 

WGIPによる影響は、我が国の歴史教科書にも確実に表れており、天照大神や、我が国初代の神武(じんむ)天皇などの神話の記載がほとんど見られません。その理由としては、例えば「神話は空想的なファンタジーであり、教科書に載せるべきではない」というのもあります。

 

しかしながら、戦後の様々な発掘調査によって、神武天皇が遺(のこ)された足跡が、地質学的に確実に証明されていることを、皆様はご存知でしょうか。

 

その根拠の一つは、大阪にあります。

 

大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから、広大な大阪平野が生駒山地にまで広がっている現在の大阪ですが、実は、今から約20000年前には、河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が、生駒山の麓(ふもと)にまで広がっていました。これは、縄文時代の約6000年前がピークとされる海水面の上昇が原因とされ、生駒山西麓(せいろく)の大阪府東大阪市では、マッコウクジラの骨が発見されています。

 

その後、温暖化や土砂の堆積(たいせき)によって、上町(うえまち)台地の北側に位置する河内湾と大阪湾の連絡口が狭(せば)まり、今から約30002000年前には、干潟(ひがた)が広がって河内潟(かわちがた)となりました。さらに約18001600年前には、湾口(わんこう)が閉ざされて河内湖(かわちこ)となり、やがて平野化したのです。

 

河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には、開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。

 

実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。

 

「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今し難波と謂(い)へるは訛(よこなま)れるなり」。

 

現在の大阪が「浪速(なにわ)」あるいは「浪花(なにわ)」と呼ばれたり、ミナミの中心地が「難波(なんば)」と呼ばれたりするのは、地質学と記紀の両方にルーツがあることが良く分かりますね。

 

なお、河内潟の頃に、先の尖(とが)った形をした上町台地は「難波(なにわ)の碕(みさき)」と呼ばれていました。

 

さらには、神武天皇が大和(現在の奈良県)の国を目指して東征(とうせい)された際に(詳しくは後述します)、大阪湾から現在の大阪府東大阪市に船で移動したという話が日本書紀にみられますが、ここにも地質学的に証明できる記述が見られるのです。

 

「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。

 

現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が、河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って、一気に潟内部に進入し、難波の碕についたことを物語っています。

 

こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら、河内湾の頃であれば、現在の大阪府東大阪市付近での長髄彦(ながすねひこ)らとの戦い(詳しくは後述します)が海戦となってしまいますし、また河内湖になってしまえば、遠浅の湖面では軍船での上陸は厳しいうえに、「速い潮流があって大変早く着いた」とはなりません。

 

ということは、神武天皇の東征は、今から約30002000年前の河内潟の頃に行われたことになりますね。その一方で、日本書紀によれば、神武天皇が即位されたのは、今から2676年前です。

 

つまり、神武天皇の東征は、地質学的にもその正しさが証明されたことになるのです。

 

4.「建国に関する伝承」と「日本文明」

では、記紀による神武天皇の東征は、どのように書かれているのでしょうか。現代の天皇陛下は数えて第125代目となられますが、日本書紀や古事記(こじき)には、始祖(しそ)とされる初代天皇たる、神武天皇と伝えられており、神武天皇のご即位までの様々な出来事が生き生きと描かれています。

 

太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)は、それまでの日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の高千穂(たかちほ)から、都を東方へ移そうと決意されました。

 

神武天皇がそのように思われたのは、日向よりも東の方で争いが絶えず、まとまりのない状態であったため、大八島(おおやしま、日本のこと)の中心たる大和に向かい、そこで新たに都を造ろうとお考えになったからだと伝えられています。

 

神武天皇は軍勢を率いられて日向から瀬戸内海を渡り、大阪湾から大和へ上陸されようとしました。先述の「難波(なにわ)の碕(みさき)へは速い潮流があって大変早く着いた」とはこのことです。しかし、現在の大阪府東大阪市付近で、長髄彦(ながすねひこ)らの激しい抵抗にあって、兄を失われました。

 

天皇は苦戦の末、紀伊(現在の和歌山県)から海路で熊野(現在の三重県)に上陸されましたが、険しい山道のなかで、いつしか道に迷われそうになりました。

 

そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられているので、サッカーファンにはなじみが深いかもしれませんね。

 

大和に入られた神武天皇の軍勢は、抵抗する豪族を次々と倒して目的地に近づかれましたが、再び長髄彦(ながすねひこ)らが天皇の前に立ちふさがりました。折しも氷雨(ひさめ)が降るなか、天皇が苦戦されておられたそのときに、どこからともなく金色に輝く一羽のトビが飛んできて、天皇の弓の先に止まると、トビは稲光のようにピカッと光り輝き、敵軍の目をくらまして敗走に追い込みました。

 

このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮は、この伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の11日と伝えられており、日本書紀では、神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。

 

今年(平成28年=2016年)は、神武天皇が即位されてから2676年目になりますね。これを皇紀(こうき)ともいい、今年は皇紀2676年にあたります。また、現在の建国の日である211日は、神武天皇のご即位の日である11日が旧暦であるため、現在の暦に修正したものです。

 

神武天皇による建国のご意思は、長いあいだ我が国の理想として絶えることなく伝承され続け、明治時代には「紀元節」として祭日となり、大東亜戦争の終戦後も、昭和231948)年の前半頃までは、官庁や学校で祝典が開催されていました。

 

しかし、GHQの命令によって、新たに国会で祝日法を制定することになった際に、日本人が心を一つにして国の誕生日を祝うことが、日本人の団結心をもたらすとともに、占領に「悪影響」が出ることが予想されたため、紀元節が一方的に廃止されてしまったのです。

 

その後、我が国が独立を回復する以前から、紀元節の復活を望む声が国民のあいだで高まってきましたが、米ソの冷戦や安保闘争などの保革激突によって実現できませんでした。

 

終戦から20年以上が経った昭和411966)年、当時の佐藤栄作(さとうえいさく)内閣によって「建国記念日を祝日として設ける」と規定した祝日法の改正案が可決されると、学識経験者などからなる審議会を設置し、半年にわたる論議の後に、「建国記念の日を211日とする」という政令を発したことで、かつての紀元節が、昭和421967)年からようやく国民の祝日として復活しました。

 

ちなみに、当時発表された世論調査によれば、「211日を建国記念の日とする」案が全体の5割近くを占(し)めるなど、国民から圧倒的な支持を得ていたそうです。

 

なお、「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは,史実に基づく建国の日とは関係なく,建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えによるものであるとされ、祝日制定に断固として反対した当時の日本社会党(現在の社会民主党)を納得させるためだったそうです。

 

しかしながら、祝日制定からすでに半世紀が経過したのですから、GHQによる洗脳状態から真に脱出するためにも、改めて「建国記念日」として国民がこぞって祝うことができるよう、法律の改正を求めていくべきではないでしょうか。

 

アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは、「日本は日本だけで一つの文明圏である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷(いん)・周(しゅう)・秦(しん)・漢より続く「中華文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。

 

つまり、我が国は世界とは全く異なる、独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、我が国の伝統たる記紀にみられる記載と地質学的な知識との一致や、較正(こうせい)炭素年代法など最新の調査で明らかになった事実を鑑(かんが)みれば、ハンティントンの言葉を借りるまでもなく、我が国が古来より輝かしい歴史を誇っていることは明らかです。

 

我が国は、ハンティントンすら気付いていなかった、遥(はる)かに遠い過去からの独自の文明の源泉があったことを、もっと認識すべきではないでしょうか。

 

しかし、いまだに「世界四大文明」にこだわった、旧態依然(きゅうたいいぜん)の歴史教科書の記載をみれば、「日本文明の誕生」を人口に膾炙(かいしゃ)させることは、容易ではなさそうです。

 

古代四大文明は、すべてがその石造建築の古さに根拠を置いています。しかし、皆様もご存知のように、我が国の文明は「伊勢神宮」の式年遷宮(しきねんせんぐう)で分かるとおり、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年も、2000年も続ける)を継承する文明です。

 

世界にこのような文明は、昔は他にもあったのかもしれませんが、今は我が国にしかありません。

 

「千里の道も一歩から」ともいいます。政治的な解決方法もありますが、それよりも、これまでに明らかにされた事実を、一人ひとりが、民間から広く啓発(けいはつ)していくことこそが重要ではないでしょうか。

 

「日本文明」の存在を、日本国民全体で共有できる日が来ることを願いながら、私たちが先頭に立って、これからも正しい歴史を伝えていこうではありませんか。(完)

 

 

主要参考文献:「日本人ルーツの謎を解く」(著者:長浜浩明 出版:展転社)

「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(著者:長浜浩明 出版:展転社)

「つくられた縄文時代」(著者:山田康弘 出版:新潮社)

「神武天皇はたしかに存在した」(著者:産経新聞取材班 出版:産経新聞出版)

「詳説日本史B」(出版:山川出版社)

「年代ごとに読める歴史事典 最新日本史教授資料」(出版:明成社)

YouTube再生リスト「日本文明の誕生」

https://www.youtube.com/playlist?list=PLeZrZWy-wML6fSTQd8GmED4Hnhv6BcHXS

黒田裕樹の歴史講座

http://rocky96.blog10.fc2.com/

 

※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」でダウンロードできる全てのpdf(テキストファイル)は、黒田裕樹が著作権を持つ著作物であり、またその販売権は「南木倶楽部全国」を主催する南木隆治にあります。これらのファイルを第三者が再販売・不特定多数に対して再配布することはできません。

 

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